トリウッド特集上映「リアル・フィクション」

トップ Real Fictionとは 上映作品 タイムテーブル イベント アクセス リンク メール

リアル・フィクション

『リアル・フィクション』

 これは現実の傍らにある映画。
 ビデオカメラがもたらした、誰かが、どこかで、今を生きてゆくために見つめた世界。

 ここには、過剰な物語も、飾りたてた映像も、賑やかな音響も必要はない。それら現実との間に作り出される魅惑的なベールは、私たちの現実感覚を麻痺させ、生きているこの場所/この世界に対する思考を弛緩させるだけだ。今日もまた映画館に行って、何度も繰り返されてきた前時代のリアリティ(現実らしさ)の遊戯に付き合わなければならない。既に映像も感情も何もかもが出来上がってしまっている。それをまた見てまた同じように感じるのだ。
 私たちはもう、映画館の中にだけ存在する紋切り型で社交的で安全な物語、そんな世界像にはもう辟易している。
 そして私たちは、改めてその事実に目を向けなければならない。一刻も早く現実らしさ(リアリティ)の彼方へと飛び出し、別の形と、別の思考をもった、私たちの信じられる映画を作ることを始めなければならない。
 重要なのは、「リアルとフィクション」という分類ではなく、「リアルとフィクション」を繋いでいる接続詞「と」の部分であるはずだ。何かと何かを繋ぎとめるもの、映像が本来持っていたその力をありのままに受け入れて、映像における虚構と現実が云々という議論に言葉を費やすのはもうやめよう。新たな現実と新たな現実感覚は、私たちのすぐそばで息づいている。
 私たちは、“私”という個人と“世界”の間に広がる微細な回路を繋ぎ直す自分なりの方法を必要としているのだ。それは現実から遠く離れた場所ではなく、現実の傍らから始まるのかもしれない。

『まだ名付けられていない映画たち』
映画監督/東京造形大学教授 諏訪敦彦 プロフィール→

 「優れた才能」などという言葉を私は信じない。
 「才能を発見する」などという名の下に行われるコンペティションというのは、実はもっと疑わしい。映画は、自分の個性を特別なものとして主張するための道具ではないはず。そんな個性を競い合う現代社会の物語によって押しつぶされる小さな者たち、弱い者たち、つまり私たちのために映画がひとつの場所を与えてやることができたらいいのに。
 そんなふうに、もう一度自分たちの手の中に映画を取り戻そう。自分と世界とのつながりを発見するために…つまり、生きるために。その生の営みこそが映画作りではないのだろうか?
 映画を作る、とは「自分のやり方で、自分の人生を救うことなんだ」と言ったのはゴダールだった。
 私もそう思う…。
 いつも彼らとそんな話をしていたような気がする。私は東京造形大学の教師として、ここに集まった作者たちの傍らにおり、作品の誕生に立ち会っていた。指導や監修をした覚えはない。逆に映画を再び発見したような実感を、未来の映画の胎動を、驚きと、希望を与えられたのは実は私の方であった。
 しかし、これらの映画たちをいったい何と呼べばよいのか?

リアル・フィクション
リアル・フィクション

大久保賢一(映画評論家) プロフィール→

 レンズは見る。世界を見る。どう見ているかを映画は映し出す。作り手はカメラを操作するが、トータルにコントロールすることなど出来はしない。思惑や企画がひっくりかえされる。だから意味があるのだ。自分に見えてしまったもの、レンズがとらえてしまったものとどう対峙するか。そこにこそ映画を作る意味がある。もっと言えば自分と映画にとってのスリルがある。
 伊藤らんの「東京23」の部屋も一つの世界だ。その世界との葛藤は、隣室からかすかに聞こえてくる歌声も含めてのものだ。静岡という世界と部屋の中とが拮抗している。
 さきのロッテルダム映画祭で上映された王兵の最新作「原油」はゴビ砂漠の油田の労働を映し出す14時間の作品だ。しかも「東京23」よりセリフは少ない。だが、ある世界を見ようとする視線の強さでは同等だ。
 昔、現実的必要から作られた「劇映画」と「ドキュメンタリー」といった区別は映画そのものにとって意味のあることではない。
 柏田洋平の「ヒネモステ」で観客が目にするのは、距離。葛藤する肉体と空間を見る、レンズの距離のドラマだ。観客は眼をこらして画面につくられた距離を見る。聞こえるものを聞こうとする。体で体験する。そこからこの作品のユーモアを受け取る。関係の悲惨さ=滑稽。それは人間性そのものだ。誰もがそれを持っている。この作品はそれを思い出させる。
16ミリも、8ミリも、デジタルも、あらゆるメディアによる映画を立ちあげるために、いま我々はそれぞれのメディアが「見る」世界を、作り手が眼と耳(非常に重要だ)と、身体のすべてで再確認しなければならない。
 そうでなければ観客は、いわゆる日常に対峙するもう一つの力強いリアルによって自分がシャッフルされる体験を得られない。
 映画は出来事として上映ごとにそこに立ち上がるのだ。

上映作品、そして<Real Fiction>に寄せて
伊藤憲(映画監督「島の唄」) プロフィール→
※2007年9月の東京造形大学上映会時のゲストとして参加。 その後、 「東京23」「くらげ」
の2作品を トリウッドの大槻に見せたのが本企画の発端である。

 それは、初めて見る学生映画だった。

 「これは自分を題材にしたフィクションだ」と、作った人は言った。でも見終わった私は「これはドキュメンタリーではないか」と考え始めていた。多分、それはフィクションだろうがドキュメンタリーだろうが、どちらでも良いのだ。東京に暮らし考え続ける20代の若者の姿が、そこに焼き付いている映画群。
 これは様々な人が見るべきだと思った。作った人を知らない人、友達ではない様々な人々が、である。映画の未来図の一つが、そこにある気がした。

 自分が作り上げた映画を見せる。いろんな人が、いろんな事を感じる。良いこと、悪いこと。こちらが意図したこと、気付かなかったこと。
 そうやって、「私」が生み出してしまったモノを、知り合いや友人でなく不特定多数の人、つまり、“蠢く社会”が見てくれる。しかも、その一人一人はお金を払ってくれた個人。だから、見せる側とは対等な人々。初めて自分の映画を見せる時、それは恐ろしいことだと私は思った。
 しかし、それは、生きるということに似ていた。
 様々な人に会う、話をする。深く知っていく人も、挨拶だけで終わる人もいる。誤解だと思うこともある。評価され過ぎだと思うこともある。そして、そのどちらも正しい。それは「私」だ。唯一の正解はない。そうやって、人は自分の姿を徐々に自分の内に積み重ねるようにつかんで行く。
 映画も同じなんだと思う。見られることによって、その映画自身が何たるかが、その映像の只中に積み上がって行く。見た人の映画への記憶が、その映画を太らせ育てて行く。見られなくては、映画は始まらない。そう、未知の人々に見られなくては、この世界に生まれ出たことにはならない。
 私は、作って終わりではない。見せることも映画なのだ、と知ったことが楽しかった。映画は、面白い。
リアル・フィクション

copyright(c) Since 2008 tollywood All rights reserved.